『出来る喜び』        使徒行伝 03:01〜16

 今日のテキストには、美しの門での奇跡が書かれています。2千年前の平均寿命は40歳と言われています。生まれながら足の不自由な男性は「40歳あまり」(4:22)とあるので、人生の最晩年に、彼は自分の足で歩くことが出来るようにされました。それは、どんなに大きな喜びであったか分かりません。今日は「出来る喜び」というタイトルで、私たちもその出来ることを通して、大きな喜びに与りたいと思います。

T.歩くことの出来る喜び
 当時のユダヤ人は、日に三回、宮にはいって祈りました。神殿での祈りは特別で、2倍の価値があったようです。ペテロらも2倍の価値に期待したのか、神殿に行って祈りました。40歳あまりの男性は、人の出入りの多い美しの門に毎日、連れて来られたのではなく、2節を見ると「かかえられ」、「置かれて」いました。つまり物扱いされ、彼は宮に来たペテロらに「施しをこう」(3)たのです。しかしペテロは、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(6)と命じると、彼は「歩き出し」(7)ました。これは彼の大きな喜びであったはずです。人は出来なかったことが、出来るようになることに喜びを感じるものです。逆に、高齢になったり、病気になって、今まで出来ていたことが出来なくなるのは悲しいことでしょうか。そうではありません。若い時の自分と比べたり、元気な人と比べる必要は少しもありません。働きの量ではありません。置かれたその場所で、自分に出来ることを探して、「キリストの名」によって歩き出すことが重要なのです。そこに私たちの喜びがあるのです。

U.礼拝することの出来る喜び
 当時、障がいを持つ人は、神殿にはいることは出来ませんでした。ですから40歳あまりの男性は、美しの門の「外側に」置かれて施しをこうていたのです。そこにペテロらがやって来て、彼はキリストの名によって癒されて歩き出し、「彼らと共に宮にはいって行った」(8)のです。つまり、宮にはいって礼拝したのです。それは「イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやした」(16)のです。この「イエスによる信仰」は、新改訳聖書で「イエスによって与えられる信仰」と訳されています。本来、宮において礼拝することの出来ない者が、主イエスによって与えられた信仰によって、礼拝することの出来る者とされたのです。ですから、彼には大きな喜びがあったのです。私たちも全く同じです。本来、神の前に出て礼拝することの出来なかった者ですが、礼拝することの出来る者に造り変えられたのです。ここに私たちの喜びがあります。

 私たちは、主イエスによって与えられた信仰をもって神を礼拝し、置かされたその場所において、キリストの名によって歩みを進めて行きましょう。ここに私たちの喜びがあるのです。

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